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武富士破綻の元凶とは

武富士は一一〇〇万円の損害賠償と謝罪広告を求める訴訟を二〇〇二年の十月に起こしている。ところがこの記事、内容をよく読んでみると武井氏と武富士に対する賛辞以外の何者でもない。批判的な記述など、どこにも見当たらない。それどころか、武井氏を「もう一人の渋沢栄一」などと、明治の大実業家になぞらえるまでの賞賛記事なのだ。にもかかわらず、単に「狂気」という単語が気に入らなかったという理由から、訴訟という手段を講じている。この訴えは後に取り下げられたものの、内容に目を通すこともなくいきなり訴訟を起こすこと自体、病的といっても過言ではない。まさに「武富士に対する批判は、わずかでも許さない」といった態度であった。

また、請求金額の大きさも、武富士が起こした裁判の特徴である。たとえば、『週刊金曜日』に連載された「武富士残酷物語」「武富士社員残酷物語」に対して、武富士が執筆者の三宅氏と発行元を相手に二〇〇三年三月に起こした名誉毀損訴訟では、請求金額は一億一千万円だった。その請求額の大きさから、「都合の悪い発言をことごとく圧殺しようとするものではないのか」と、関係者やジャーナリストたちは口をそろえる。これらの裁判では、武富士はことごとく敗訴、または和解に応じるという結果に終わっている。法廷の場で、武富士の言い分はほとんどが退けられたということである。そしてしめくくりが、創業者である故・武井保雄氏に対する「個人崇拝」の強要だ。

全国の店舗、営業所には武井氏の写真が掲げられ、朝礼などの際には従業員が最敬礼。また、ボーナスを支給した社員には、武井氏への「お礼の手紙」を強制的に書かせていた。当時、武富士は「強制ではない」などと主張していたが、「書かないわけにはいかない」という状況だった。しかも、その「お礼の手紙」をうっかり茶封筒に入れて送ってしまったため、支社幹部に呼び出され、社内の会議室に監禁されて「なめとんのか」などと暴言を浴びせられながら暴行を加えられ、退社を強要された入社一年の社員の例もある。業務とはまったく関係のないはずの、まして強制ではないという「お礼の手紙」に茶封筒を使っただけでクビにされるという現実がそこにあった。尋常ではないとしか考えられない。

そうした数々の不法行為、不正行為を繰り返してきた。しかも、裁判になっても、武富士そして武井氏は、「知らない」「やっていない」「事実無根」を繰り返した。その様子は、あたかも証拠のないものは事実無根で通すかのようだった。しかし、実際には証拠は出てくる。元社員による証言も法廷で述べられる。関係者の肉声や会話が収録された録音テープも法廷に流れる。それでも、武富士や武井氏は「知らない」を繰り返した。もっとも、記述のように社員は武井氏による恐怖政治によって口を封じられていた可能性がある。一方、武井氏の発言は、明らかに不自然なものが数多くあった。

たとえば、自社ホームページでジャーナリスト山岡俊介氏に対する誹誇中傷が行われていたことについて法廷で質問を受けると、武井氏は次のように答えた。「武富士にホームページがあることを、私は知らなかった」わたしもその言葉を傍聴席から直接聞いて、他のジャーナリストたちと唖然としたことを覚えている。盗聴までして社員を管理し、タイトルが気に入らないからと言って裁判に訴えるほどの武井氏が、自社ホームページがあることを知らなかったなどということがあるだろうか。こういう不自然としか考えられないことをしてきたのが、創業者の武井保雄氏であり、その体質で支配され、運営されていたのが武富士という組織なのである。そのほかにも、京都での土地取引に関する一連の事件や、警察や広告代理店・電通との関係など、武富士や武井氏が関係した事件や疑惑は数知れない。「そうしたコンプライアンスを完全に無視したことを、何の反省もなく長年にわたって続けていたわけです。

そんな組織が、企業として存続できるわけがありません。武富士の破綻は、当然の結果でしょう」(三宅氏)三宅氏は「何の反省もなく」と述べたのには、明確な理由がある。二〇〇三年の春から秋にかけて。そして、二〇〇三年十一月に元幹部、十二月にはトップの武井保雄が逮捕されるに及び、武富士はTVCMおよび新聞や雑誌での営業広告を中止。自社ホームページ上でも弁明するとともに、新聞各紙に事件に対する謝罪広告を掲載するなど、全社挙げての「謝罪と反省」を形に表した。武富士の社員たちは、「武富士クリーン運動」と書かれたタスキをかけて街頭でティッシュを配った。しかし、事件後も武井氏は、武富士の関連会社が所有する社員研修施設「真正館」を自宅として使うなどの公私混同を続け、次男である武井健晃氏を取締役に就任させるなど、反省しているとはいえないような行為を続けたのである。